うつになった


隙あらば自分語り。のコーナー


今日は学校お休みしたので、眠剤を飲んで、14時、もうベッドに横になっている。


スマホを置いて、目をつむれば、たぶんすぐ寝る。でもその前に、イヤな記憶を思い出してしまったので、それを書いて寝るつもり



割に裕福だけど、山麓の田舎にある家で生きてきた。

都会育ちの人たちからすれば、集落とか村みたいな言い方でイメージがつくような場所だ、今は引っ越して別の住居にいるけど、それでも車で1時間弱のところ。


祖父、祖母、母、あとは叔母、と暮らしていて、幼少から甘やかされてきたと思う。小さい頃から本が好きで、お絵かきしたり、あと風船と水と火が好きだった。ポケモンみたい


中学受験して、私立の中高一貫校に入学できた。倍率なんてほぼないから、別段賢いわけじゃない、落ちた人なんて両手両足あれば足りる、でも私立の学校はブランド力が第1なので生徒にプライドを持たせるために、あたかも自分たちは特別です、みたいな、そういう暗示を随所に小出ししてた。普通科の高校生と同じ朝礼の時に中高一貫を贔屓される。


校歌をしっかり歌っている、挨拶がきちんとできる、校訓を一語一句間違えず、生徒会への進出、文化祭の実行委員での活躍、地域のおばあさんが轢かれてたのを助けました、模試で良い成績でした、部活動にも邁進していて文武両道、中高一貫の生徒はすばらしい。


当時まだ田舎から出てきたばかりで、クラスメイトだってそうだ、近くにあるのが海か山かみたいなもので、千人ほどの生徒が憂鬱そうに三角座りしてる中、私たちだけは誇らしげにしていたのを、学校を辞めた今では反吐がでるほど気持ち悪いのだが、残念ながらそうやって洗脳されていると、在籍中は常に鼻にかけて行動していた。最悪だ。


私は私が頭がいいわけじゃなかった。全国的には中の中、でも田舎の私立では上位の成績で、優良生として、三者面談もイヤと思ったことはなかったし、Mauちゃんなら大学も大丈夫、と高等部に進学してからも言われ続けていた。高校に入ってからは中学の時よりも成績が伸びた。美大に入りたくて、電車で土日には美研にデッサンに通った。この成績で、ぼちぼちのデッサンが書ければ、私立の美大には余裕だろうと。


しかし、そう上手くいくものじゃないよ、と


高校に入ってから、授業が長く、実家を離れ学校の近くに引っ越した。高いところにある新築の賃貸で、ママの部屋から見える夜景がキレイだった。近所の大社の赤い鳥居がライトアップされている。


悪い知らせは突然起こるものだ。


ママと夕飯を食べている時、ママのスマホから電話が鳴った、しつこく何度もコールが鳴った、祖母からだった。7時すぎだったと思う。確かテレビでは火曜サプライズが放送されていたと思う。


もしもし?・・・うん、・・・待って、え、お母さん、落ち着いて。・・・ウソでしょ、待って、うん、J病院・・・うん、どうやって行くの?ああ、Nさん、・・・うん、そうした方がいい、お母さんがいま運転すると絶対にダメ、事故するから、一緒に・・・うん、住所、ああ、大丈夫、カーナビがあるから、私は・・・うん、急いで行く。しっかり、大丈夫、まだ分からないんでしょ、うん、急いで行く。Mauは・・・うん、分かった、とにかく気をつけて、しっかり、うん、じゃあね、後で。


実家にいる家族が、1人、A市の温泉で心肺停止して、J病院に搬送された。そういう電話だった。手に持っていた箸が震えていた。ママの電話は音量を大きくしてあって、すべて聞こえていたから


祖母は、どうしよう、どうしよう、と何度も言っていた。祖母と言っても、まだ髪の黒い60代の力持ちな人で、でもさすがに青天の霹靂には同様を隠せずにおろおろしているのが分かった。そして私のママも、大丈夫大丈夫と連呼しながらも、声が震えていて、今にも泣き出しそうになっていた、地元のママの妹へ電話して、私も病院に行くから、あなたは?子どもはどうするの。ああ、そっちのお母さんに預けて・・・気をつけて来るのよ、じゃあ、そう言って急いで車のキーとスマホを持って玄関に向かう。


Mau、ごめんね、行ってくる。絶対大丈夫、あの人が死ぬわけないから。大丈夫だから、私も応援してくるから、Mauもここでお祈りしてて、応援してて。絶対生き返らせなきゃ。


うん、うん、わかった、私は大丈夫、早く行って。早く行ってあげて。


そこからは、私は、夕飯のおかずを一口食べて、吐き出しそうになったかもしれない。震え続けていた手で食器を重ねて、カチャカチャ音を立てる皿をシンクに置いた。


スポンジを泡だてて、皿を洗ったかもしれない。水は出しっ放しだったかも。おかずが載ったままの皿を洗い終えて、水を止めて、キッチンで膝から崩れ落ちた。


神さま・・・仏さま・・・神さま・・・仏さま・・・おねがいします、おねがいします、生きていますように、しにませんように、おねがいします、私が死んでもいい、どうかあの人だけは生かしてください。おねがいします、どうかおねがいします、


バカみたいに、16歳の私は、手を合わせて懇願した。手首から震えて、両手が奇妙に動いた。ママの部屋から見る夜景を脳裏に描く。朱色の鳥居。池がある。冷たい池だ、年間通して13〜15度を保つ池の水、街の光を受けてわずかに水面が光って・・・神さまがいる。神さまがいる気がする。おねがいします、これから私の願いすべて叶わなくていいので、あの人を生きさせてください。テレビから火曜サプライズの賑やかな笑い声。真新しい賃貸のフローリング。冷蔵庫の静かな呼吸。ウエンツ瑛士の大きな声、スタジオのリアクション、ナレーションの丸いアニメ声、さっき洗った皿から落ちる水滴、息、涙、熱い涙、大泣きしながら、手を合わせ、夜が深くなっていく。ベッドで寝ていたから、お風呂には入れたのかもしれない。どうやって入ったのかなんて覚えてない。


朝、ママが帰ってきて、あの人が死んでしまったから、学校帰りに実家に行こう。と言った。疲れて眠るまで泣いていた自分の腫れた目からまた涙が出た。学校帰りまでふつうでいろって、あの人が死んだのに。授業中どんな顔をしていればいいんだっけ?友だちと話すときはこのひどい顔をどうやってごまかすの?毎日のルーティンワークで、または真面目な性分で学校を休む選択肢がなかった自分は、制服を着ていて、笑いながら泣いた。こんな状態で、夜の7時まで、演技しなきゃならない、死んだ人の顔も見れず、死んだ人の死んだ瞬間にも立ち会えず、生き殺しみたいだ。


ママは私を見て、実家に行こうかと言った。自分から学校を休む選択はしたことがない私も迷わずに頷く。あの人に会いたい


雨が降っていた。霧がかった道路を小雨が濡らす。窓にパタパタと雫が落ちて、それをワイパーが無慈悲に弾き落とす。死んだときのあの人は温泉で心肺停止になったから、温かかったらしい。でも死んでいたらしい。誰も間に合わなかった。家族誰も間に合わなかった。温かいからだを祖母、ママやママの姉妹が大泣きしながら抱きしめた。死んだのは私の祖父だ。


祖父だが、私の保護者だった。家が裕福なのもすべて祖父の自営業のおかげだった、中学から私立に通わせてくれたのも祖父がお金を出したからだ。シングルマザーだったママに、俺が金を出すから、しっかり育てろ。大学までは俺が面倒を見るんだ。好きなことをやらせてやれ。今この文を打ってるだけでも涙が出てくる。お金だけじゃない、祖父とは生まれてから高校までずっと一緒に暮らして、旅行へ行って、いろんなことをした。中華料理屋に2人で行って、食事中に祖父が新聞を読んでいた。私は持っていた本をおそるおそる開いて、食事中に読書した。祖父は怒らなかった。祖母やママなら間違いなく注意するのに。祖父と畑仕事をした。肥料の石灰粉で灰色の泥だんごをつくった。祖父が軍手をつけた指で開けた穴へ私が種をまいた。それを水やりした。それを食べた。私が数学で分からないところを聞くと、高専卒の祖父から聞いたこともない方式を繰り出され、全く分からず解答を写した。夜中、2人で耐久レースを観た。録画してくれと頼まれてネオンが光るアジアの街を爆走するレーシングカーの放送を録画した。まだある。思い出がありすぎる。あまりにもささやかなのにかけがえのない思い出ばかり。


ママの車のプリウスは、バイパスを雨の中走っていた。車内ではamazarashiのスターライトが流れていた。2人とも泣いた。


家に着くと、傘もささず、私は玄関に駆け込む。スーツ姿の男性が案内しようと手を伸ばしたが、そんなの必要ない、つい先日まで住んでいた家だ。ハルタのローファーを脱ぎ、和室に行く、祖父が布団に横たわっている。顔はむくんで土色になっている。目が閉じている。人なのに人の感じがしない。私は泣き崩れる。それを見たママも泣きじゃくりながら私の肩を抱く。


死んじゃった、お父さん、死んじゃったよぉ・・・


私は祖父の身体を覆うかけ布団に突っ伏した。涙が白くて冷たい布を濡らし、布越しに死んだ身体の不自然な硬さを感じる。


お父さん、お父さん、戻ってきてよぉ、お父さん


悲痛っていうのはあのときのママや祖母の声を言うのだ、肌を切れのいいナイフで裂かれたように痛い。私は戻ってくるわけないじゃん、と思いながら、それでもまだそこにある祖父を見つめると、どうしても泣けてしまう。


それからは、ただただ悲しみが包括した。親族がやって来て、親睦があった市議員や政治関係の人が来た。色んな人が来た。そしてもれなく全員泣いた。何でだよ、ばかやろう、俺より先にいくなよぉ、お前が死んでどうすんだよぉ、親戚の叔父さんも、叔母さんも、祖父のきょうだいも、近所の知らない人も、それを見る暇もなく、私は祖父の冷たい手を握った。粘土みたいな重みがあって、握り返してきたりはしない。ひとしきり悲しんでから、祖父が腐らないように、内臓を取り除く際には全員が外へ出され、そして内臓の処理をして顔色のお直しの化粧を施し着物を着た祖父を見て、また皆泣いた。


通夜と葬式はすぐに行われた。近くのJAの式場で行った。同じ名字の人が担当の1人にいて、彼だけでなく彼らは皆懇切丁寧なサポートをしてくれた。おかげさまでまだ混乱冷めやらぬ私たちが無事に式を終えられた。


火葬場がもっとも壮絶だったかもしれない。バスで全員が火葬場へ向かった。正直思い出したくない。頭の後ろ側が強烈に痛む。


白っぽい木の棺に花々と燃やせる生前使用していた大切なものと収まった祖父に蓋をして、蓋へ釘を打つ儀式がある。最悪だった。親族は皆、号泣しながら釘を金槌で打つ。


Mauもやりなさい。お別れをいいなさい


金槌を無理やり待たされた。飛び出た釘がある。親戚の叔父さんの力強い手が私の辛うじて持った金槌の柄をしっかり上から握る。振り下ろす。釘が打ち込まれ、祖父が完全に閉じ込められる。


じいじ!!じいじ、じいじ、


私は祖父をじいじ、と呼んでいた。比較的新しい火葬場のホールに私のみっともない鼻声の叫びがハウリングする。完全に祖父が見えなくなってしまった、冷たい床に座り込む。重々しいドアが開いて、棺はそこへ入っていく。今までそのままの存在として「在った」かたちが失われる。バカみたいな考えだけど、容器があるのだからキリストみたいに復活する、みたいに考えていたものもなくなる。私は祖父の動かない内臓が取り除かれたとき、私の新鮮な若い心臓や臓物を祖父の死体へ移植してもらおうと思っていた。だからといって生き返るわけはないのだが、いよいよ燃やされてしまっては打つ手は一切なくなることに強い絶望を感じた。火葬している間は別室でいなり寿司みたいなのを皆で食べるのだが、まるで食べる気分にならない。祖父が今燃やされているのを想像して、トイレでえずいた。


骨を骨壷に入れるのは、最後の最後にした、それまで子どもっぽいけど、骨になった祖父を受け入れられなかった、飼い犬を溺愛している叔父さんと、小さな骨を骨壷へ納めた。火葬場のスタッフが、これが頭蓋で、これが顎です、と祖母へ説明している。燃やさなかった入れ歯とメガネを壺へ入れ、死に限りなく近い匂いを嗅いでその場を後にした。


思わず長い文になった。ここから半年ひきこもりになって、PTSDうつ病の診断を受け、自分は転校することになる、人生の転機は間違いなく祖父の死にある。それが悪いとは思わない、そのままレールを歩けばいい人生だったかもしれないし、いい子のままいられただろうけど、今は人生ドロップアウト一寸先も闇で四つん這いで手探りの地獄を進んでいる



自分語りというか、ただ書いて整理したかっただけなので、でも誰か1人にでも見てほしかったからブログを使ったわけで、結局同情されたいだけだろと言われればそうかも、あとは学校休んでヒマだったから。


テンション下がる重い話でごめんなさい


あと黒染めして髪傷んでかなしい。全然髪伸びないし。